参加者の作品

 

語り部(執筆)企画の参加者の作品です。

 

 

希望

東京大学教養学部理科1類1年

安久岳志

 

まえがき

 

これは広田町に住む、ある方が震災時につけていた記録である。ちょうど1週間前に初めてこの地に来た自分は、これを読んで、月並みな表現だが、心が震える、という体験をした。

 

以下引用

 

≪あの日、あの時≫

突然の激しい揺れ。‘とうとう来るものが来た。’との思いに、心までが大きく揺さぶられる。

10年ほど前から宮城県沖津波の発生確率が高くなるにつれ、常に津波を意識した生活になっていた。

 いまだかつて体験したことのない揺れに、数10年前に読んだ小松左京の「日本沈没」を思い起こし恐怖のあまり、フォークリフトにしがみついたまま何もすることが出来なかった。

それでも数分後、揺れが弱くなり始めると何から手を付けるか頭の中で整理をしていた。そしてまだ揺れが治まらない最中、処理場の機材・資材等を一ヶ所に寄せ集めた。

揺れの治まった数分後ふと従業員達を見てみると、先程の出来事が何もなかったかのように普段の仕事に戻っていたのにはビックリ!思わず「そんなもの放ってげ!津波来るがら避難だ」と叫んだ。

 

以上引用

 

あの地震が起こったとき、自分は中学2年生で、教室にいた。千葉県柏市である。大きな揺れが起こり、教室にいた全員が机の下に隠れた。揺れが収まったあと、教室はザワザワと騒ぎ出した。担任の先生が言った「騒ぐな。今この瞬間にも亡くなっている人がいる。」という言葉は今でも覚えている。すぐに自宅のマンションに帰り、家族と会った。マンションの6階にあった自宅では、机から引き出しという引き出しが飛び出していて、棚からは本という本が全て落ちていた。すぐに外に避難した。人で溢れかえっていた。

 

その後は余震もあったが、徐々に落ち着き始め、その日の内には部屋に戻った。テレビで常にニュースを確認しながらも、もとの生活に戻っていった。

東日本大震災は、「ニュースで確認できる、東北地方で起こったこと」になっていった。計画停電もあったが、「これで徐々に復興は進んでいく。」と思っていた。

 

2018年3月18日。広田町に来て4日目。自分は、この町に住むある方のお話を伺った。冒頭に載せた引用文を書いた方である。その方の口からは、「悔しい。」という言葉が出てきた。その方は、「いつか来る。」という心の準備ができていた。地震のあとには津波が来ることも知っていた。だから揺れが来たあと、周りにいた人に高台へ避難するように率先して呼びかけた。しかし、町にいる人全員に呼びかけることは、どだい不可能なことであった。それでも出てきた「悔しい。」という言葉には、自分自身に対する無力感、他者に対する、今までの震災から何を学んだのかという怒り、といった様々な感情が含まれていたように感じる。

再び震災時の記録から引用させていただく。

 

以下引用

 

多くの生命、財産が失われる悲劇

(津波災害が繰り返される三陸海岸)

      ↓

先人の「教訓」はなぜ生かされなかったのか?

      ↓

繰り返されてきた津波の悲劇から何を学び何を未来に生かすのか

   どのような行動を起こしたのか

   そこから学んだことは何か

   学んだ事(教訓)をどう生かすのか

      ↓

未来に伝える「教訓」の明確化

  ・体験、体感をした住民による「教訓」の取りまとめ

  ・「教訓」の全国発信

  ・記録誌、メモリアル施設の資料として活用

      ↓

震災を後世に語り継ぐ地域文化の醸成

 

以上引用

 

あのとき自分がいた千葉県や、今自分が住んでいる東京から陸続きのこの場所で、確かに震災は起こったのだと、今は切実に実感する。今回のプロジェクトにあたって、慈恩寺様には10日間泊めさせてもらい、大変お世話になった。慈恩寺は海抜29mの高台にあるお寺であるが、その門には、「東日本大震災 津波到達水位」というしるしがある。このしるしは町の至るところにあるのだが、建物の3階や4階の高さにあるものを見たときには、そこで亡くなったであろう方々に対する哀悼の意がこみ上げずにはいられない。

 

 

同じ過ちを繰り返さないために、震災を後世に語り継ぐ必要がある一方で、ただ過去にとらわれていてはいけない。「50年後、この町はなくなってしまうかもしれない。」町のある方が仰った言葉だそうだ。自分がこの町に関わったのはわずか10日間だが、この10日間で、漁業、裁縫、農業、大工、執筆と本当に多くのことを体験した。それはどれも、普段の生活の中では体験し得ないものばかりであった。「こんなにいいもの、いい人で溢れている町になくなってほしくない。」と心の底から思った。この町をこれからも残していくためには、その方法を考えていく必要がある。

その方法とは、この町に関わって、この町を残していきたいと思う人をまず増やすことだと思う。自分は偶然にも大学の先輩に誘われて、分からないことも多い中、というよりほとんど何も知らない状態で、この町に来た。その自分が今は、この町を残していきたいと強く思っている。そして、人と人との繋がりを生むことこそがこの町を残していくための希望だと考え、こうして発信という行為をしている。

漁業がある。農業がある。文化がある。そしてなにより広田町には、温かい方々がいる。一度訪れてみれば、あなたはこの町に必ず惹きこまれる。